明治4(1871)年7月14日の「廃藩置県の詔書(太350)」によって中央集権的性格を強めた明治政権は各藩がそれまでに発行した藩札の移管を受け、直接継承することになった。もちろん、こうした藩札の流通は新政権の貨幣的な基盤を揺がすことになった。そのうえ、さきにあげた「太政官金札」、「民部省札」、「大蔵省兌換証券」、「開拓使兌換証券」はいずれも紙幣としての品質が悪かったので、偽札が多く出まわった。そこで、明治政権は、明治4(1871)年12月に技術的にすぐれたドイツに新紙幣の製造を委託した。明治2(1869)年5月28日に「新貨鋳造金札交換の期限を定め金札通用十三年の制を廃し正金金札兌換に私利を収る者を罰するの法を定む(第482)」という条例が公布された。これによって、それまでに発行された紙幣である「太政官金札」と「民部省札」は公定的に正貨と等価物であり、その後に発行された「大蔵省兌換証券」と「開拓使兌換証券」も同様の性格を持っていたと推測できる。しかし、この条例では正貨と紙幣との間に周知の価格差があることを認めていた。したがって、明治政権が「明治通宝」という北ドイツ連邦のドンドルフ・ナウマン(Dondorf & Naumann)社に新紙幣の製造を委託したことは、明治5(1872)年から明治10(1877)年にかけて、日本の紙幣と正貨との兌換が不可能になったということを意味した。ドイツ製「Hergestellt in Deutschland」である明治通宝の発行額は1億2,100万圓にのぼったが、このうち2,200万圓は270の藩が発行していた藩札のかわりとして、また6,200万圓は明治政権の発行した「太政官金札」などのかわりとして用いられたのである。
著者についての詳細はCoinsWeeklyのWho’s who からアクセスできます。(英語)