日本貨幣関係史11:「日清戦争」の賠償金とその支払い方法

楊斎延一:『平壌大勝利之図』、1894年9月。
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明治28(1895)年7月28日、日本は日清戦争の賠償金の獲得により大規模な金準備の可能性を確保していた。すなわち、明治27(1894)年8月1日に開戦された日本と中国(清国)との戦争である「日清戦争」は、翌明治28(1895)年4月17日、「下関講和条約」の調印により終戦となった。そして、この下関条約にしたがって、中国は軍費賠償金として「庫平銀両(kuping tael)」2億両を日本に支払うことになったのである。また、別の付属条約によって、中国は毎年「威海衛(現在、威海)」に置かれる日本軍の守備隊費の4分の1にあたる庫平銀両50万両を賠償金として支払うことを受け入れた。さらに、「三国干渉」の圧力によって締結された「奉天半島還付に関する条約」にもとづいて行なわれた奉天(現在、遼東)半島返還の代償として、中国は日本に庫平銀両3,000万両の賠償金を支払うことを承諾した。

うえに述べたような各種にわたる中国からの賠償金が日本の金本位制の採用を可能にした。「日清戦争」をめぐる条約では、賠償金の単位は一貫して庫平銀両であった。庫平銀両1両の価値は純銀量目579.84グレイン(grains)、すなわち37.5729グラム(grams)であったが、庫平銀両は貨幣(正貨)ではなかった。それゆえに、実際に支払われる賠償金の貨幣単位は条約交渉上の課題であった。明治28(1895)年5月に元大蔵大臣松方正義は、金本位制の採用のため、中国からの賠償金をロンドンで金兌換することができる英国貨幣(ポンド)によって受け取ることを提案した。こうしたことから、明治28(1895)年10月6日、両国の交渉の結果、中国は金に兌換ができる貨幣である英国ポンドでの支払いに同意した。最終的に、軍費賠償金、奉天(現在、遼東)半島の返還の賠償金、そして威海衛の守備隊費の賠償金の合計は3,791万8,381ポンドとなったのである。

 

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