忘れ去られたD-Day:「D-Day」とインフレ〔第8部〕

コンピューターがまだこのような形状だった頃、イングランド銀行はコンピューター化事業所を設置した。写真: Tekniska museet / CC BY 4.0.
コンピューターがまだこのような形状だった頃、イングランド銀行はコンピューター化事業所を設置した。写真: Tekniska museet / CC BY 4.0.
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「D-Day」の背景には、経済全体ととくに証券および金融界における「機械技術(つまり、コンピューター)」の使用の増加があった。たとえば、1968年3月、クイーン・マザー(エリザベス女王太后)は、イングランド銀行の「コンピューター化事業所」を正式に開始したのである。もう1つ、1ポンド未満の価値の表現方法を改革する理由があった。極めて政治的理由で「10進通貨委員会」は公言していなかったが、それは、インフレの進行であった。1950年代後半、私の父が月給13ポンド12シリング6ペニー(£13/12/6)だったと聞いたとき、私は「石炭を燃料とする蒸気船を乗り回しながら、1日半ポンド(0.50ポンド)にも満たないじゃないか」と思った。しかし、その一世代前の第二次世界大戦中、前線の英国陸軍および海軍の兵隊の給料は、控除を差し引いても1日2シリング(0.10ポンド)程度であった。もう一世代前の第一次世界大戦では、「前線」の英国陸軍歩兵の日当は1シリング(0.05ポンド)が普通であった。つまり、賃金や物価の上昇に見られるように、インフレによって、ポンドの購買力が(とくに1914年における古典的な金本位制の崩壊以降)低下していたのである。

第二次世界大戦中、英国の兵隊の給料は1日2シリングだった。ジョージ6世、 2シリング 1943年、写真: Münzhandlung Ritter.
第二次世界大戦中、英国の兵隊の給料は1日2シリングだった。ジョージ6世、 2シリング 1943年、写真: Münzhandlung Ritter.
第一次世界大戦中、英国陸軍歩兵の日当は1シリングだった。この硬貨はオーストラリア用にロンドンで鋳造された。ジョージ5世、1シリング、1912年、写真: Münzhandlung Ritter.
第一次世界大戦中、英国陸軍歩兵の日当は1シリングだった。この硬貨はオーストラリア用にロンドンで鋳造された。ジョージ5世、1シリング、1912年、写真: Münzhandlung Ritter.

しかし、それにもかかわらず、なぜ英国の敬愛すべき小銭コインは消えてしまったのだろうか?それは単に枚数の問題ではなく、その通貨の価値(つまり、購買力)の問題であった。ファージングは1ポンドの960分の1、ハーフ・ペニーは480分の1、ペニーは240分の1、スリー・ペンス(スルーペンス)は80分の1、シリングは20分の1と、もともと1ポンドの小さな端数が、1960年代後半と1970年代の頭におけるインフレによって、旧貨幣および硬貨としての「有用性」を失いつつあったのである。

こうしたことから、1971年2月15日(偶然にも日本の明治4年に交付された「新貨条例」の年からちょうど100年後)、英国は、約150年前にその導入を検討した最初の国の1つであったにもかかわらず、通貨制度を10進数化した最後の主要国となったのである。

本シリーズは、CoinsWeeklyに以前掲載された記事を日本人の読者様向けに修正したものです。英語の原文はこちらでご覧いただけます。

著者についての詳細はCoinsWeeklyのWho’s who からアクセスできます。(英語)