本記事は、オスナブリュックのオークション会社Künkerが提供しています。
童話王ルートヴィヒ2世は、わずか18歳という若さで既にバイエルンの国王になりました。若き王は現実との折り合いがつけられない夢想家だったので、その時代になかなか迎合することができませんでした。皇太子時代から既に童話の世界に浸すことを現実より好んでいました。その際、リヒャルト・ワーグナーの音楽が人生の伴奏となる重要な要素となりました。ルートヴィヒ2世は自分のことを、魔法にかけられてその救済を待つしかない騎士と考えていたのです。
挑戦的な政治状況
しかしそこで問題となったのは、当時のバイエルン王国は有能な支配者を必要としていたことです。なぜなら、ドイツはまだ現在のような国家になっておらず、相互に争い合う数多くの小国に分断されていたからです。その中で、指導的地位を掌握しようとしていた競争相手が二人いました。北のプロイセンには、優秀で策士のオットー・フォン・ビスマルクが、オーストリアには、魅惑的なシシィと結婚したにもかかわらず、救いようのないくらい古風な皇帝フランツ・ヨーゼフが君臨していました。バイエルン王国は、数多くのドイツ小国の中で領土が最も大きかったので、大国のプロイセンとオーストリアとどちらがドイツ全体を支配するかという難問にとってバイエルの決断は決定的だったのです。
このような状況は、巧みな政治家ならば巧妙な交渉を通じて自国のために膨大な利益を引き出すには絶好の機会であったでしょうが、ルートヴィヒ2世は賢くも巧妙でもありませんでした。王の頭にはただ一つのこと、つまり童話の世界に引きこもることしかなかったのです。
ルートヴィヒ2世の城
過去の時代の様式を取り入れた代表的な建築物を建設するという考え方が、19世紀後半のヨーロッパでは流行していました。煙突の煙が立ち込めている工業化は、多くの人々に一見健全な過去への憧れを抱かせていました。ルートヴィヒ2世の場合もそうでした。彼は即位して4年後に既に人里離れた山に童話にあるようなノイシュヴァンシュタイン城の建設を始めたのです。
ルートヴィヒ2世の城は国家を代表する建物ではなく、彼とその客だけが滞在の許された私的な隠遁の場の目的で建てられました。そのため、ルートヴィヒ2世にはその建設のための甚大な費用を私費で賄うしかありませんでした。バイエルン国王として彼は毎年420万グルデンが自由に使うことができました。ちなみに、プロイセンの大臣の年収は約21,000グルデン、事務官の年収は700グルデンでした。当時700グルデンもあれば、一家がまともに暮らすことができたのです。
しかしそれでも、人里離れた山に豪華な城を建設するために420万グルデンは足りませんでした。なぜなら、ルートヴィヒ2世は、その俸給で居城、巨大な宮廷、自身の保有していた馬車等の維持費の他に支出があったからです。一例をあげてみると、好みの難しい作曲家リヒャルト・ワーグナーに家を提供していたのみならず、1864年から1865年にかけて合計で17万グルデンを支払っていたのです。それに加えてルートヴィヒ2世は一つの城ではなく、多くの城を夢見ていました。ノイシュヴァンシュタイン城だけでその建設開始にあたっての試算で180万グルデンが必要だと見積もられていました。ルートヴィヒ2世が亡くなる頃にその費用はおおよそ360万グルデンにまで膨れ上がりました。
自国の独立を売る国王
ルートヴィヒ2世は、バイエルンの国民から毎年受け取っていた420万グルデンでその代表的な建築物のアイディアを実現できないことを理解していたので、自由に使える資金を増やしたいと思いました。プロイセンの代表者であるオットー・フォン・ビスマルクは十分な資金を保有していました。
ビスマルクは、ドイツの多くの小国をプロイセンの主導下の帝国に統一する原動力でした。しかし、統一の実現にはバイエルン国王の援助が必要だったのです。そのためビルマルクはルートヴィヒ2世に、スイスの銀行を通じて個人的に秘密裏で定期的な資金の振り込みを約束し、その総額はおそらく600万グルデン以上のものでした。この手筈についてルートヴィヒ2世の存命中はプロイセン政府も、バイエルン政府も、そして1871年に初代ドイツ皇帝になったプロイセン国王も何も知らなかったのです。
政界からの撤退
ルートヴィヒ2世がプロイセン国王に書簡を送り、統一帝国の政権を担うよう正式に要請した行為が何を意味していたか気づいた時にはもう手遅れでした。このようにしてルートヴィヒ2世はその権力を放棄し、発言権すらない王に陥っていったのです!その事実を受け、ルートヴィヒ2世は建築物の建設に専念し、公から身を引きました。
童話王は、果たして本当に狂ってしまったのでしょうか。それとも、バイエルン政府にはその死亡時に750万グルデンの借金を抱えていた支配者を法的に無能と宣伝する他に道はなかったのでしょうか。ルートヴィヒ2世は1886年6月11から12日の夜にかけてシュタルンベルグ湖で死亡したので、これらの問いには今後も確実な回答は得られないでしょう。自殺だったのか、殺人だったのか、あるいは事故だったのか、それも知る由もありません。
童話王のコイン
童話王ルートヴィヒ2世のコインは、あらゆる価格帯で入手可能です。現在でも珍しいコインを比較的安い価格で購入することができます。例えばKünkerオークション会社の2022年1月26日に開催予定のオークションで、わずか12枚(!)しか鋳造されていない1864年の半グルデン金貨が15,000ユーロという開始価格で出品されています。さらに、1902年に収集家のために鋳造されたもう一つの珍品は、12,500ユーロという開始価格で見積もられています。それは、バイエルン中央造幣局が、1864年のグルデン金貨のオリジナル鋳型を使用して収集家フェラーリのために製造した金の鋳型です。当時の銀貨ならば遥か安価に購入することができます。Künkerオークション会社でグルデン金貨と半グルデン金貨は150ユーロという開始価格から出品されています。また、Künker社のオンラインショップには、1871年のドイツ帝国建国後に鋳造されたバイエルン国王ルートヴィヒ2世の肖像が描かれているコインが魅力的な価格で度々出品されているので、一度検察してみることをおすすめいたします。