明治政権は負債額の増加に悩んでいながら、それまでに存在していた多くの種類の紙幣と統一された貨幣との交換に関しても懸念を抱いていた。そのために、明治政権は為替会社制度の再活性化を試みた。三井組、小野組、島田組、そして岩崎家といった商人達の請願、および伊藤博文の勧告にもとづき、大蔵大輔井上馨はアメリカ合衆国型の「国立銀行制度」の導入を支持した。
こうしたことから明治6(1873)年6月に設立された「第一国立銀行」は東京に開設されたこともあって最も主要な国立銀行であった。この銀行の設立に当たって三井組と小野組に対して、もし設立に協力しなければ、明治政権の公金取扱を停止する脅しが行なわれたといわれたのである。次いで、「第二国立銀行」が設立されたが、この銀行は為替会社として唯一営業を続けてきた「横浜為替会社」の後身であった。同銀行は「第一国立銀行」と競争しながら発展することができた。
しかし、40%の正貨準備という国立銀行条例の規制は厳しく、国立銀行の数が5つ以上に増えることを妨げた。なお、認可された5つの国立銀行のうち、「第三国立銀行」はなかなか開業に踏み切ることはできなかった。また、国立銀行は十分な預金を持っていなかったので貸し付けを思うように進めることができなかった。大量に流通した様々な種類の紙幣、それと対照的に不足した正貨の量は明治政権の意図した紙幣と銀行券の交換を妨げた。そのうえ、国立銀行が発行した銀兌換銀行券はあまり流通せず、それを受け取った人はすぐ銀行に持っていき、銀貨と兌換してしまう有様であった。国立銀行が貨幣制度の改革に成功することができなかったことにより、国立銀行券の流通、すなわち銀行券発行額はわずか200万圓にとどまったのである。
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