切手オークションでは2022年上半期に、古典から現代のものまで高値の新記録がいくつか達成されました。現在の市場において、富裕層の切手収集家の他に投資家も重要な役割を果たしています。
450,000ユーロの高値をつけた90クロイツァー:「1黒クロイツァー」、アルトドイチュラントの最小価格の切手
バイエルンはドイツ諸国の中で、1849年11月に郵便料前納のために切手を導入した初めての国家です。1クロイツァー相当の最も小さい価格の切手は、「1黒クロイツァー」として知られ、収集家から人気を博しました。
その郵便切手が誕生したミュンヘンでは、2022年、ダイダー社の第70オークションで90枚の切手が貼られた半分の印刷用紙が、なんと450,000ユーロ(約6200万円)で入札されました。印刷用紙の真ん中にある縦の一行は印刷されずに空白のままで、ほとんどすべての切手は未使用で無傷のものです。博物館に展示できるほど価値のあるこの標本は、元は切手専門家兼検査官マリア・ブレットル氏(Maria Brettl)のコレクションにあったもので、その後個人所蔵となった唯一無二のものであるとされています。さらに、スタンプの押された他の卓越した標本は2,500ユーロまでの価格(約35万円)、3行の標本は14,500(約200万円)と10,500ユーロ(約150万円)の価格に達しました。
「貴妃酔酒」 中国の最も高価な切手小型シート
60年前の1962年の夏に、中華人民共和国の最も高価なシリーズが印刷されました。8つのモチーフで、京劇の最も有名な俳優の梅蘭芳氏(1894–1961年) を記念しました。シリーズの頂点としては、1962年9月15日から梅氏の代表作品「貴妃酔酒」のシーンを白と青の縁に囲んで描かれた3元相当の大型切手が発売されました。20,000枚しか製造されていないとされていますが、中国人にとって比較的高い価格のためにあまり売れなかったようです。残った在庫品は文化大革命の開始時期に処分されたとされています。
1965年のミヒェル・カタログで35マルクで落札された未使用の切手と消印の押された切手のシートは相場がそれぞれ18,000ユーロ(未使用、約250万円)と8,000ユーロ(消印が押されている、約100万円)に大幅に増大しました。最近のオークション結果が示しているように、その間の価格の一時的下落も乗り越えられています。
また、完全に未使用品の切手の珍しさが見て取れます。ミヒェル氏は、次のように述べています。「ブロック8はほとんどいつも小さな誤りがあります。そのような標本は鑑定済みです。完全な★★の標本は、約70%のプレミアが付きます。」
我々は、過去数週間、ヨーロッパの市場で8,900ユーロ(約125万円)から18,000ユーロ(約250万円)の価格帯で落札された、保存状態の異なる未使用品の標本が確認できました。プレミア価格も考慮すればさらに25から30%高いです。上記に、いくつかの標本の説明を英語の原文の通りにご紹介しております。
100年で初の共同出品:「Old Calabar」の「オイルリバーズ保護領」暫定切手
1890年代にイギリス人が西アフリカのニジェール海岸を保護領として要求し始めた時期に、いくつかの珍しい切手が流通していました。「Oil Rivers(オイルリバーズ)」という加刷の英国切手には、変更された価格と現地の消印が手で押されていました。
紫色、赤、そして黒の消印の押された三つの1シリングに20/-という価格は、「Old Calabar」としてアフリカおよび英国の植民地の最も珍しい暫定切手であるとされています。チューリッヒのCorinphila社のオークションの中で、「BESANÇON」という偽名の高級コレクションの特別カタログで、100年後に初めて共同で出品されたようです。結果は、520,000スイスフラン(約7,470万円)で160,000スイスフランという開始入札価格と、スタンレー・ギボンズ(Stanley Gibbons)カタログによる380,000ポンドという落札予想価格を大幅に上回りました。また、その他の単品の標本も、多数が入札より数倍で落札されカタログの予想価格より大きい落札価格を達成しました。
250,000スイスフラン(約3500万円)を達成したのは、スイスカタログの目玉だった「ヴィンタトゥールの手紙」です。以前Provera所蔵の手紙に貼られたベルギーの「1番」切手シートの角はなんと、400スイスフランから24,000スイスフランにまで急激に上昇しました!
人気の標本:日本からブルガリアへ
第22回スタムペーディア・オークション(Stampedia Auction)で20世紀の記録として最も良い結果をもたらしたのは、予想外の360,000円を達成した上記の手紙です。青い188の20銭切手1枚のこの手紙はブルガリアのソフィアにある教会アカデミーのとある教授宛に送られました。到着は手書きで「1923.XI.9(1923年11月9日)」と書かれています。手紙の内容は、ドイツ語で救援活動について語っています。